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プレジデント 2/15号より
プレジデント 2010年2月15日号より
最近気づいたこと
・日本人は強迫神経症的気質で、あまりにも「和」を尊びすぎるあまりに出る杭は打たないと気が済まない体質。
故に人との付き合いなどにも細やかな神経を配り過ぎ、一種の人から批判・批判されることに恐怖を抱いている。
例えば清潔だったり、隣の家の人が何かを買えば自分も買わねば、という感覚に陥ったりする。
そして、あまりにも「和」を尊ぶあまり、レールから離れる人を平気で否定しやすいフレームワークの持ち主の民族でもある。
だが、この見方は徐々に薄れていっている。インターネットにより、自分と同じ人たちがいることを知るに至ったが故に。
そして、強迫神経症的気質・抑圧の社会は何か芸術的なものを生み出しやすい、と社会心理学者エーリッヒ・フロムはいう。その一部の例として、ルネッサンスなどをあげている。
今や日本人はその社会的ストレスの解放の矛先を絵画的なモノ、すなわち「アニメ」「漫画」やそれに類似するものを現実逃避的なものとして世界にも輸出している。
一部の人は「アニメ」や「漫画」に対して否定的な見解を持っている人もいるが、それら否定的な人物像は現実に満足している人であり、いわゆる「現実逃避」をする必要性の無い人ではないかと思われる。もちろん中にはそれらに対して自分も参加したいが、過去の自分への教育や価値観などで参加できない人が叩いているケースも見られる。また、現実的で無いものに対して愛着を持つ行為は、いわゆる「神」などが存在する宗教的な感覚と類似するものとみられ、現実逃避の度合いが過ぎるものとも見られる故に否定的に感じる人もいる。
また、アニメなどを叩く人は「自分自身」というものを生きているのではなく、何かしら「購買」や「仲間意識的」トレースされた生き方をしている雰囲気でもあるが故に否定しやすい人間ではある。
興味深いことにそういったアニメを創出している人である人たちはそういった生き方に対して否定的で、自分からなにかしら創出することを忠告しているが、その発言を聴くよりも、「仲間意識」に浸るには、情報や知識を購入し所有する方が楽なのである。というのも、なにかしら創出するエネルギーを消費してまでは生きていくには厳しい社会ではある。いや、厳しいというよりも、壮絶な覚悟のいる社会なのだろう。
・日本人の携帯好きは異常
上の箇所とかぶるところがままあるが、日本人は携帯電話がめちゃくちゃ好き。
パソコンはリビングと考えると、携帯は個室もしくは不可侵のトイレか。
iPad はどちらかというと日本人向けとは言い難い。というのもあまりにもリビングにも個室にもあたらない中途半端だから。
iPad でアダルト・BL のマンガや出会い系サイトをするかといわれたらはなはだ疑問だったりする。
でも個人的にはめちゃくちゃ欲しい iPad。iBooks で日本の出版会社ががんばってくれればすごく嬉しい。
故に人との付き合いなどにも細やかな神経を配り過ぎ、一種の人から批判・批判されることに恐怖を抱いている。
例えば清潔だったり、隣の家の人が何かを買えば自分も買わねば、という感覚に陥ったりする。
そして、あまりにも「和」を尊ぶあまり、レールから離れる人を平気で否定しやすいフレームワークの持ち主の民族でもある。
だが、この見方は徐々に薄れていっている。インターネットにより、自分と同じ人たちがいることを知るに至ったが故に。
そして、強迫神経症的気質・抑圧の社会は何か芸術的なものを生み出しやすい、と社会心理学者エーリッヒ・フロムはいう。その一部の例として、ルネッサンスなどをあげている。
今や日本人はその社会的ストレスの解放の矛先を絵画的なモノ、すなわち「アニメ」「漫画」やそれに類似するものを現実逃避的なものとして世界にも輸出している。
一部の人は「アニメ」や「漫画」に対して否定的な見解を持っている人もいるが、それら否定的な人物像は現実に満足している人であり、いわゆる「現実逃避」をする必要性の無い人ではないかと思われる。もちろん中にはそれらに対して自分も参加したいが、過去の自分への教育や価値観などで参加できない人が叩いているケースも見られる。また、現実的で無いものに対して愛着を持つ行為は、いわゆる「神」などが存在する宗教的な感覚と類似するものとみられ、現実逃避の度合いが過ぎるものとも見られる故に否定的に感じる人もいる。
また、アニメなどを叩く人は「自分自身」というものを生きているのではなく、何かしら「購買」や「仲間意識的」トレースされた生き方をしている雰囲気でもあるが故に否定しやすい人間ではある。
興味深いことにそういったアニメを創出している人である人たちはそういった生き方に対して否定的で、自分からなにかしら創出することを忠告しているが、その発言を聴くよりも、「仲間意識」に浸るには、情報や知識を購入し所有する方が楽なのである。というのも、なにかしら創出するエネルギーを消費してまでは生きていくには厳しい社会ではある。いや、厳しいというよりも、壮絶な覚悟のいる社会なのだろう。
・日本人の携帯好きは異常
上の箇所とかぶるところがままあるが、日本人は携帯電話がめちゃくちゃ好き。
パソコンはリビングと考えると、携帯は個室もしくは不可侵のトイレか。
iPad はどちらかというと日本人向けとは言い難い。というのもあまりにもリビングにも個室にもあたらない中途半端だから。
iPad でアダルト・BL のマンガや出会い系サイトをするかといわれたらはなはだ疑問だったりする。
でも個人的にはめちゃくちゃ欲しい iPad。iBooks で日本の出版会社ががんばってくれればすごく嬉しい。
今日気づいたこと
○ みんな一緒のようで違う。差異に気づこう。
・家内が散髪屋さんで精神的に疲れ切っていた。
人に対して気を遣いすぎなんだろう。2chネラーの一部の人もそんな感じの感想を言っていた。昔のオイラもそうだった。
サービスとして「思い遣っている」ということで心が苦しくなっている人は多分めちゃくちゃ多い。
あなたは客として来ているから気にしないで、という店側の態度があっても、
みんながみんな、商業奴隷主義的な考え方なんてしているわけじゃない、
中には店員は奴隷的に扱う人が目立っているのも事実だけど、
対人関係が希薄な人は決してその商業奴隷主義的な持ち主とは言えない。
この手の分野でも二極化が進んでいる。
・具体的な解決策は
・・自分のマインドをかえる
「店員」は客を他人と認識しているからテキトーでいい。
・・「店員」とその「店」のコンテキストを知る
「店員」さんと「店」が欲しているものは次のウチどれか?
・・・情報
・・・承認
・・・ストレス解消的対話(会話ではないことに注意)
結論として
・・店のスタンスにあわせる
・・店のスタンスを無視しして自分ペースを貫く
オイラは店のスタンスを無視して好きな本を読むのが好きだったりします。
ただし、店員さんと話しがあう場合などであれば普通に会話したりします。
○ 思いやりなどあんまりない
これはあくまで考え方であって、親や何かしらの規律の強制には当てはまらない。
・(一般)思いやりを示している様に見えるのは自分への何かしらのリピーターへの期待
・規律をルールもしくは「世間」として強制的に妥当性を持たせる(いわゆる「当たり前だろ」)というのは自分の思考を停止した甘えの一つ
○ 専門家に気をつけよう
・一部すごく大切な事をあえて文庫化・書籍化して、無駄にページ数を稼いでいる文筆家の存在
これによって、信憑性を薄めている人がいる事実。
・↑を逆説的に考えてみれば、すごく重要なことを重要でないかのようにさせている。という感覚でもある。
・家内が散髪屋さんで精神的に疲れ切っていた。
人に対して気を遣いすぎなんだろう。2chネラーの一部の人もそんな感じの感想を言っていた。昔のオイラもそうだった。
サービスとして「思い遣っている」ということで心が苦しくなっている人は多分めちゃくちゃ多い。
あなたは客として来ているから気にしないで、という店側の態度があっても、
みんながみんな、商業奴隷主義的な考え方なんてしているわけじゃない、
中には店員は奴隷的に扱う人が目立っているのも事実だけど、
対人関係が希薄な人は決してその商業奴隷主義的な持ち主とは言えない。
この手の分野でも二極化が進んでいる。
・具体的な解決策は
・・自分のマインドをかえる
「店員」は客を他人と認識しているからテキトーでいい。
・・「店員」とその「店」のコンテキストを知る
「店員」さんと「店」が欲しているものは次のウチどれか?
・・・情報
・・・承認
・・・ストレス解消的対話(会話ではないことに注意)
結論として
・・店のスタンスにあわせる
・・店のスタンスを無視しして自分ペースを貫く
オイラは店のスタンスを無視して好きな本を読むのが好きだったりします。
ただし、店員さんと話しがあう場合などであれば普通に会話したりします。
○ 思いやりなどあんまりない
これはあくまで考え方であって、親や何かしらの規律の強制には当てはまらない。
・(一般)思いやりを示している様に見えるのは自分への何かしらのリピーターへの期待
・規律をルールもしくは「世間」として強制的に妥当性を持たせる(いわゆる「当たり前だろ」)というのは自分の思考を停止した甘えの一つ
○ 専門家に気をつけよう
・一部すごく大切な事をあえて文庫化・書籍化して、無駄にページ数を稼いでいる文筆家の存在
これによって、信憑性を薄めている人がいる事実。
・↑を逆説的に考えてみれば、すごく重要なことを重要でないかのようにさせている。という感覚でもある。
うすうす気づいたこと
「自由からの逃走」(自由とデモクラシー)エーリッヒ・フロム
P.284
我々はここで、心理学の最も困難な問題の一つである自発性の問題に近づく。この問題を十分に論じようとすれば、稿を改めなければならない。しかしわれわれがこれまで述べてきたことから、対照的に、自発的行為の本質的な性質を理解することができる。自発的な行為は、個人が孤独や無力によって駆り立てられるような強迫的なものではない。またそれは外部から示唆される型を、無批判的に採用する自動人形の行為でもない。自発的な活動は自我の自由な活動であり、心理的には sponte というラテン語の語源の文字通りの意味、すなわち、自らの自由意志のということを意味する。われわれは活動ということを、「なにかをなすこと」とは考えず、人間の感情的、知的、感覚的な諸経験のうちに、また同じように人間の意志のうちに、働くことのできる創造的な活動と考える。この自発性の一つの前提は、パースナリティ全体を受け入れ、「理性」と「自然」との分裂を取り除くことである。なぜならば、人が自我の本質的部物を抑圧しないときにのみ、自分が自分自身にとって明瞭なものとなったときにのみ、また生活のさまざまな領域が根本的な統一に到達したときにのみ、自発的な活動は可能なのであるから。
自発性はわれわれの文化にあっては比較的まれな現象ではあるが、我々は全くそれを欠いているわけではない。この点の理解を助けるために、私は読者に、我々すべてが、自発性を目の当たりに出来るいくつかの例を思い出してもらおうと思う。
まず第一に我々は、自然で自発的であった人たちを知っている。かれらの思考、感情、行為は、かれら自身の表現であり、自動人形の表現ではない。これらのひとびとは多くは芸術家として我々に知られている。じじつ、芸術家は自分自身を自発的に表現することのできる個人と定義することができる。もしこれが芸術家の定義であるとすれば、 - バルザックはかれ自身をまさにそのように定義したのであるが - ある哲学者や科学者もまた芸術家といわなければならない。それにたいしてほかのものは、ちょうど旧式な写真屋が画家と異なるように、かれらとはちがっている。芸術家のように自分自身をある客観的な手段に表現する能力、あるいは訓練はかけているが、芸術家と同じような自発性を持った他の個人もいる。しかし芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、実際には成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、かれは隣人から奇人か「神経症患者」とみられる。芸術家のこのような事情は、騎士上の革命家の事情と似ている。成功した革命家は経世家となり、失敗した革命家は罪人となる。
小さな子どもたちは自発性のもう一つの例である。かれらは本当に自分のものを感じ、考える能力を持っている。この自発性はかれらが話たり考えたりすることのうちに、またかれらの顔に表現される感情にうちに見られる。もし大部分の人を引きつける子供の魅力が何であるか問うならば、センチメンタルな月並な理由は別として、私はまさにこの自発性に違いないと思う。この自発性は、それを感知する力を失うほどには死んでいない人々に、深く訴えていく。じっさい、子供にせよ芸術家にせよ、あるいはこのような年齢や職業で分類することのできない人々にせよ、かれらの自発性ほど、魅惑的説得的なものはない。
...
自発的に行動できなかったり、本当に感じたり考えたりすることを表現できなかったり、またその結果、他人や自分自身にたいしてにせの自我をあらわせなければならなかったりすることが、劣等感や弱小感の根源である。気がついていようといまいと、自分自身でないことほど恥ずべきことはなく、自分自身でものを考え、感じ、話すことほど、誇りと幸福を与えるものはない。
